だんまりを決め込んだあの子が書く曲が好きで、その子のことは苦手

 子供の頃みんなの前で発表しないといけないときに固まって黙ってそのままやり過ごす子のこと、ほんとうはずっと嫌いだったんだ。目に涙をいっぱいに溜めて、「もういいですよ」と言われて席に戻っていく。きっと言いたいことが上手に出てこなかったんだろうな、なんて思っていたけど、今になってはそうやって涙を溜めていた子達が自由に羽を伸ばして踊っている。厳しい社会に出なくとも自分の表現したい世界で表現したいことをして。ずるいと思った。わたしはいつもハキハキ言いたいことを発表して、偉そうにものを言って、先生に褒められて、男子を口で言い負かして、全部をわかった気でいた。わたしのことをずっと仲間外れにした子は最後にその理由を聞くと、「大人ぶってるのが嫌だったから」と言った。わたしは本当の意味でずっと、ばかだ。

 

 

 

 わたしはいつも話したいことがたくさんあって、自分のことばかりべらべらと話したがる。言葉はいつもわたしのそばにいて、わたしが思うようにいつも操れることがほとんどだった。発表なんかでアドリブをするのもすごく得意。大体のテーマを把握して、大体言いたいことを決めてしまえば、あとは口からペラペラと言葉が出てくる。しかも上手い具合に。「なんかいい感じ」に「それっぽいこと」を言うのが得意だから、その手のことで困ったことがない。手か口を動かし始めたら終わりまで動かし続ければいいだけだ。自分の気持ちをわかってほしいと思えば、その気持ちにできるだけ近い言葉を探して、組み立て、説明した。いつも、「そんな風に自分のことを上手に説明できてすごいね」と言われる。自分の言葉にできる部分の気持ちを話しているだけで、自分のことを上手に説明しているわけじゃない、そもそも自分のことをよくわかってもないのにと思う。自分の意見を言ったり質問をするたびに周りの人からは「頭がいいね」「すごいね」と言われる。ほんとうは何一つわかっていることなんてなくて、人より少しだけ言葉でラッピングするのが得意なだけで、人と一緒になることが大嫌いだから必死に人と違う見方をしたくて見つけた質問だし。みんなが当たり前に知っていることを知らないことも多くて、苦手でできないことだってたくさんあるのに、すごいだなんて言わないでよと思う。勝手にできる子だと思わないでほしい。いつもいつも。

 

 

 きっと言葉はいつも、わたしのやりたいのにできないことの代わりをしてくれたからこんなに近くにいるんだと思う。バレエで体をうまく動かせなくて、ずっと下手くそだったけど、どこをどうやってどんなイメージで動かせばいいかを説明することはできた。人の踊りをみて、分析して、この人はここを直したらとても良くなる、そしてここがその人の長所だとわかるし言葉にできた。自分の体が動かない分、頭を使って考えて、言葉で説明できるようになった。先生からは「あなたはいい先生になれるよ」と言われた。わたしは先生にはなりたいと思わなかった。言葉で説明できるようになった分だけ上手に踊れたらよかったのにと何度も思った。「説明が上手だね、わたしそんなことできない」って言っていたあの子はいつも、言葉になんかできなくても、言葉にするよりもっと上手に自由に踊っていて、羨ましくていつも泣きそうになった。

 

 

 きっとうまく言葉にできない人が、爆発するように表現する何かは美しいんだろうな。中途半端に言葉にできてしまうせいで、なにひとつ表現がうまくいかない。文章にも美しさやおもしろさはなく、中途半端に器用なせいで味わいのない絵や字。思いつくメロディや詩も陳腐だ。ただ表現して、美しく激しく燃えながら生きて、死んでいきたかった。教室がしんと静まり返ったあの時、あの子が感じた苦しみを、あの子は歌ったりするんだろうか、踊るのだろうか、綴るのだろうか。薄く引き延ばすように言葉をこね続けているわたしはいつまでも知ったかぶりの子で、だんまりを決め込んだあの子の広い世界に笑われているみたいだ。また一つ、こうやって思ったことを半端な文章にしてしまった。生きた証の作品は作れないのに、何も言わないでおくことができなくて、結局ただの話が面白くないおしゃべりな人間だ。寡黙な人に憧れるのは、「黙る」ことをできるから。美しく黙ることのできる人は魅力的だと思う。「黙る」から、次に言葉が出てきた時鮮やかだ。いいな。羨ましい。わたしが自由に羽を広げて飛んでゆけるのはいつになるだろうか。もう、やってこないんだろうか。いつか来ると時を待ちながら、老いていくのだろうか。せめて、自分の美学や哲学を見出して、信念を持とうと思う。自分と自分以外の人を愛することができるようになりますように。愛するということがどういうことか、わかっていけますように。