失恋データ3️⃣

あと50歩くらい歩いたら彼氏の家に着くくらいのところに用事があって、もう交わらない生活に胸が苦しくなった、すごく落ち込んだ

間違えた、もう彼氏じゃなかった

 

学校帰りに恋人の家にそのまま泊まりたかった、次の日丸一日遊べるって思ってたけど結局ダラダラしたかった、学校が始まる前に別れちゃったけど。

 

論理的に考えてそのままうまくいく恋愛ではなかったし自分がそれ以上傷ついて相手も疲弊する前に離れて正解だったと思うけど、そことは違う心の場所で、ずっと悲しくて泣いている、けれど別れてから一度も涙は流していない。泣いたのは、わたしの好きと彼の好きの大きさが違うことに違和感があると言われて、じゃあ別れた方が良くない?って少しキレてしまって一旦持ち越しになった電話をした次の日だけ。バイトの前にメイクをしていて突然涙が出て声を出して泣いたけど、涙袋に涙をつけたくなくて、意地で泣き止んだ。涙は表面張力によってティッシュで吸い取れば目から溢れない位置にいた。

 

こうやってパーソナルな話をブログに書くことはあまり良くないのかもしれないけれど、誰に言っても違うなと思うことは文章にするしかないし、それがわたしの記録になっていくならそれでいいと思えるからこうして印を残している

 

いつまでも忘れないでいられることは有限なのかもしれない

 

わたしがブログをしていることを知っている人はいるけれど、実際に読んでもらったことはあまりない。いつも読んで星をつけてくれる人が2人。いつもありがとう。こういう文章を大人に読んでもらうことに抵抗があるけれど、実際読んでどう思うのか聞いてみたくはある。失恋のしかたはよくいる19歳の女の子みたいなんだろうか。

 

 

思ったことを箇条書きのように書いていくといつのまにか失恋の話ではなくなっている

 

失恋って過去のことなのに、こんなにも感情を支配できるからすごいとバイト中感動したことを思い出した。もう絶対に変わることのない事実に何故ここまで思いを馳せることができるのだろう。それが人類の中で何度も繰り返されてきて、これからも繰り返されることがおもしろい。なんて不思議なことだろう。考えても無駄、とは言えないけれど、考えても変わることはないのだ。過去なのだから。けれど考えることで自分の形は変わってゆく。自分の形が変わってしまって、悲しくなることだってある。歪にへこんでしまったり、尖らなくていい場所が鋭く尖ってしまったり。それで人のことを不快な気持ちにさせるような自分になってしまっているのかもしれない。それでも変わる自分は止められないし、変わってゆく自分を受け入れていかなければならない。それがいつか自分の糧になることを切実に願いながら。

 

ブログを始めてから2回目の失恋だと気づく

 

前の失恋のことはあまり具体的に書いて公開していない、ネット上で知り合った人で、アカウントがバレてしまったからというのもある。

 

恋愛的に魅力のある女の子像がなんとなくわかってきた。そしてそのような女の子にわたしはなれないことも。

 

自分のことを好きでいたい。自分のことを好きでいれば自分のことを好きな人のことももっと大切にできる気がするから。ベースに自己嫌悪がある人間だけど、これからちょっとずつ変わっていけばいい。完全に根本が変わらなくても、時間がかかっても、少しずつ努力する。努力して変えられるものでもないから、ちょっとだけ好機をください。

 

わたしの心がずっとモヤモヤしている理由が、万人が経験する失恋という事象なのが気に食わない節はある。わたしはいつだってプライドが高くて、自分を高いレベルにいる人間だと思っていたいから。そういうところを変えないといつまで経っても醜いままだと思う。わかってはいてもなかなか思うことは変えられないよね。変わるって、ほんとうに難しい。

 

もう恋人に顔を見られて唐突に「まるい」と言われてへこむことがありませんように。まあ、しばらくはないから痩せようという気持ちよりストレスからくる食欲が勝ってずっと何か食べている。食べ物は、本当に美味しい。失恋でご飯が食べれなくなって弱々しく痩せ細りたいもんだね。もりもりごはんを食べるというより、ばくばくお菓子を食べている。不健康。

 

。を使うことによって区切りがつく感じがするように、少しずつ区切りをつけていこう。区切りがつかなくても、薄く引き延ばして、いつかふんわり懐かしめるくらいには生きていなきゃいけないのかな、とか思う。

 

色んなことにチャレンジして、たくさん人と積極的に遊んで、1人で色んなところに行ったりして、生活を彩っている。恋で彩られていた極彩色のようにはいかなくとも、すこやかな色ではあるから、それでいい。みどりとか、きいろとか、そういう色の感じがする。外から取り入れる光みたいな、自分の力で引き込むような、そんな色。

 

ぐるぐると考えたり落ち込んだりさみしくなったりすることに疲れてきた

 

いつだってひとりで、いつだってひとりじゃない、けれど結局ひとりなんだと今は思う。

 

禿げたおじさんがバスに乗っていて、この人もいつだかわからないけどいつかは人に恋されていた人なんだと思ったらおもしろかった、失礼だけど。わたしの好きな人もいつかは老いる。そのことに気づかせてくれてありがとう。

 

こうやって恋愛のことでたくさん考えて文章を書きまくる自分のこと、おもしろがってあげたい。

 

 

 

だんまりを決め込んだあの子が書く曲が好きで、その子のことは苦手

 子供の頃みんなの前で発表しないといけないときに固まって黙ってそのままやり過ごす子のこと、ほんとうはずっと嫌いだったんだ。目に涙をいっぱいに溜めて、「もういいですよ」と言われて席に戻っていく。きっと言いたいことが上手に出てこなかったんだろうな、なんて思っていたけど、今になってはそうやって涙を溜めていた子達が自由に羽を伸ばして踊っている。厳しい社会に出なくとも自分の表現したい世界で表現したいことをして。ずるいと思った。わたしはいつもハキハキ言いたいことを発表して、偉そうにものを言って、先生に褒められて、男子を口で言い負かして、全部をわかった気でいた。わたしのことをずっと仲間外れにした子は最後にその理由を聞くと、「大人ぶってるのが嫌だったから」と言った。わたしは本当の意味でずっと、ばかだ。

 

 

 

 わたしはいつも話したいことがたくさんあって、自分のことばかりべらべらと話したがる。言葉はいつもわたしのそばにいて、わたしが思うようにいつも操れることがほとんどだった。発表なんかでアドリブをするのもすごく得意。大体のテーマを把握して、大体言いたいことを決めてしまえば、あとは口からペラペラと言葉が出てくる。しかも上手い具合に。「なんかいい感じ」に「それっぽいこと」を言うのが得意だから、その手のことで困ったことがない。手か口を動かし始めたら終わりまで動かし続ければいいだけだ。自分の気持ちをわかってほしいと思えば、その気持ちにできるだけ近い言葉を探して、組み立て、説明した。いつも、「そんな風に自分のことを上手に説明できてすごいね」と言われる。自分の言葉にできる部分の気持ちを話しているだけで、自分のことを上手に説明しているわけじゃない、そもそも自分のことをよくわかってもないのにと思う。自分の意見を言ったり質問をするたびに周りの人からは「頭がいいね」「すごいね」と言われる。ほんとうは何一つわかっていることなんてなくて、人より少しだけ言葉でラッピングするのが得意なだけで、人と一緒になることが大嫌いだから必死に人と違う見方をしたくて見つけた質問だし。みんなが当たり前に知っていることを知らないことも多くて、苦手でできないことだってたくさんあるのに、すごいだなんて言わないでよと思う。勝手にできる子だと思わないでほしい。いつもいつも。

 

 

 きっと言葉はいつも、わたしのやりたいのにできないことの代わりをしてくれたからこんなに近くにいるんだと思う。バレエで体をうまく動かせなくて、ずっと下手くそだったけど、どこをどうやってどんなイメージで動かせばいいかを説明することはできた。人の踊りをみて、分析して、この人はここを直したらとても良くなる、そしてここがその人の長所だとわかるし言葉にできた。自分の体が動かない分、頭を使って考えて、言葉で説明できるようになった。先生からは「あなたはいい先生になれるよ」と言われた。わたしは先生にはなりたいと思わなかった。言葉で説明できるようになった分だけ上手に踊れたらよかったのにと何度も思った。「説明が上手だね、わたしそんなことできない」って言っていたあの子はいつも、言葉になんかできなくても、言葉にするよりもっと上手に自由に踊っていて、羨ましくていつも泣きそうになった。

 

 

 きっとうまく言葉にできない人が、爆発するように表現する何かは美しいんだろうな。中途半端に言葉にできてしまうせいで、なにひとつ表現がうまくいかない。文章にも美しさやおもしろさはなく、中途半端に器用なせいで味わいのない絵や字。思いつくメロディや詩も陳腐だ。ただ表現して、美しく激しく燃えながら生きて、死んでいきたかった。教室がしんと静まり返ったあの時、あの子が感じた苦しみを、あの子は歌ったりするんだろうか、踊るのだろうか、綴るのだろうか。薄く引き延ばすように言葉をこね続けているわたしはいつまでも知ったかぶりの子で、だんまりを決め込んだあの子の広い世界に笑われているみたいだ。また一つ、こうやって思ったことを半端な文章にしてしまった。生きた証の作品は作れないのに、何も言わないでおくことができなくて、結局ただの話が面白くないおしゃべりな人間だ。寡黙な人に憧れるのは、「黙る」ことをできるから。美しく黙ることのできる人は魅力的だと思う。「黙る」から、次に言葉が出てきた時鮮やかだ。いいな。羨ましい。わたしが自由に羽を広げて飛んでゆけるのはいつになるだろうか。もう、やってこないんだろうか。いつか来ると時を待ちながら、老いていくのだろうか。せめて、自分の美学や哲学を見出して、信念を持とうと思う。自分と自分以外の人を愛することができるようになりますように。愛するということがどういうことか、わかっていけますように。

最近姫毛の調子悪い

 小学生2年生くらいの頃バトンに憧れて、その頃はダンスも習っていなかったけど通っていたピアノの教室の楽器店でピカピカのバトンを買ったことを思い出した。銀色の部分はひんやり冷たくて、全体はまあまあ重い。習ったことはなかったとはいえ、ずっと憧れていたからバトンを習っている友達に教えてもらって傘で技は練習済みで、いざ本物のバトンで「横回し」みたいなやつをしたときはドキドキした。自分の腕に当たってたまに痛かったけど回すのをやめられなかった。床に落としたら結構大きい衝撃があって、自分の部屋の床に傷がついたような気がする。

 

 急に思い出したことをすぐにツイートする癖がついてしまったけど、さっき「バトン!懐かしい!」ってツイートしようとした時に「いや、今日ツイートしすぎた、やめよう。でも忘れたくないな」って思って、だったらメモしようと思い上の文章を書いた。ツイートには文字制限があるから言いたいことを的確にまとめてだれかのツボをつくような文章をつくることの練習にはなるけど、今言いたいことはほんとうに、ほんとうにそれだけ?それだけの文字数のことしか思い出せない?こうやって書いていくと、自分がどう思ってたかが文章になって出てくるし、書いている途中でどんどん思い浮かんだり思い出したりする。手が止まるまで思っていることを書くのは大事なのかなと思った。なんでもかんでもTwitterに放出するのがもったいないかも⭐︎と思っていたところだったし、自分の特性みたいなものはツイートみたいな短い文章では活かしにくいのかなと思うからこれからは意識的に書き分けをしてみたいと思う。まあでも、わたしにとっての今のツイートって「今すぐにこれが言いたいしなんならみんなに見てほしいあわよくば反応くれたらいいな」って自己顕示欲の現れみたいなものだから、最終的にあまりツイートをしない人にはなりたい。なんでもかんでもってのが、やっぱりクールじゃない気がするから。

 

 いつもブログを書き始めて、書いてる途中も、書き終わったあとも思うのは「これ、エネルギーの突出でしかないじゃん」ってことだ。計画的に綿密に案を練って文章を作ったことがほぼないに等しいので、このままじゃ社会に通用しないな、どうしようっていつも焦る。だけど、思い立ったときに書き始めて、もうこのくらいでいっか!って適当にぶちぎって終わらせた文章をいつもブログにアップしているおかげで、あとから見返していくとそのときに出た波動みたいなのが感じられてちょっと好きだ。胎動なのかもしれないね。

 

 ある時期のおみくじでずっと「胎動は聞こえています」みたいな、今は待つときだよーってことが書かれていたけど、そろそろ生まれてもらっていいですか?とは思っている。生まれたことに気づけていないだけかもしれないけど、もう死にそうだから。生まれる前に死んじゃうのかなって思う。いつも「いつか」「早く」って思ってるけど、それは一生続くのかもしれないね。

 

 あ、今書きたいこと結構書いちゃった、あと何書こう、あんまり具体的な話はしたくないしな、って思ってる段階にきました。きっともうすぐ終わります。短い文章の方が読みやすいものねって思うことで自分を納得させて、もう今日は寝よう。明日が、起きてよかったなって思える1日になりますように。いや、なれよ、ならなかったら許さないから!

パソコンに慣れる

 恐る恐るキーボードを叩く。パソコンを手に入れた。機械は得意じゃないからすごく難しい。授業の時に隣の賢い男の子に操作を丸投げしていたのを思い出した。これからは上手に使い分けをしながら文章を書いてみようと思う。

 

 鼻が詰まっているせいでバターサンドが食べられない。美味しいものを鼻が詰まった状態で食べるなんてあり得ないから早く良くなってほしい。

 

 ある時期にコンビニの菓子パンは大体食べ尽くした。だからもう見ただけでそのパンは美味しいかどうか推測できるようになった。結論としてはコンビニに美味しいパンはほとんどない。ごく稀にレンジで温めてもらうことにより絶品になるパンもあるが大体は期待の味や食感を下回る。コンビニの菓子パンはいつだって程よく私を裏切る。

 パンといえば、どんなパン屋でも焼きたてが世界一美味しく感じるのはなぜだろう。焼きたてマジックというやつだろうか。家から一番近くにあるパン屋は独特な生地で食べると歯にひっつく。幼い頃はそこのパン屋を美味しいとあまり思わなかったのでその独特な生地を避けるためにそのお店でパンを買わねばならない時にはマフィンを選んでいた。しかし大きくなってから再びその店に訪れるとマフィンはもう売られてなかった。そしてわたしの通っていた学校の購買ではなんとそのパン屋から入荷されているパンが人気だったのだ。わたしの認識とは大幅にズレたそのパン屋のパンへのイメージに驚き、友達からの強い勧めでそのパンを食べることになった。美味しかった。あの生地ではあるものの美味しくて、それからは友達といない時にも自らそのパンを買いに購買に向かうようになり、挙げ句の果てには学校からの帰り際に直接そのパン屋に向かうことも多くなった。これはわたしの推測だが、わたしがそのパンを美味しく感じたのはいくつかの原因が重なったからじゃないかと思っている。ひとつはわたしが食べ盛りな思春期だったということ、もう一つは毎日大変すぎる学校生活を送っていたこと。人は疲れると今までそんなに美味しいと感じていなかったものも美味しく感じるようになるのかもしれない。今はどうなんだろうか。そこのパン屋のおじちゃんに捕まるとアメリカのスーパーには家が売ってあることなどを一時間に渡って話してくるのであまり気は進まないけれど、その味を確かめたくなってきた。

 

 

 なんだかかっこいいことをしている気分になってきた。なんかかっこいいじゃん。いかにも子供の感想って感じだけど。

 

 体調が悪い人間に「次はいつだっけ、明日?じゃあ待ってます。」って怖すぎる。怖いよマジで、こんな人になりたくないな。

 

 わたしの心の中の口癖は’’早く’’だ。いつだって’’早く’’って言葉が頭にあって、でもなにを’’早く’’なのかわからない時が多い。でも、でも、早く。早く

 

 

 鼻が詰まりすぎて鼻から息を吸えなくなってきた。早く治れよ。まったく。

 

 

部屋は今も絶妙に汚い

 

 

 

 

最後の味付けが肝心だけど自信がない

 書いているうちに書きたいことを吐き出した方が楽だけど、そうすると後付けのタイトルになってしまったり思っていた文量に届かなくて困ることになる。だけどあとで見返してやるせない気持ちになりながらつけるタイトルも歪で愛してあげたいものである。

 

 わかっているけどきっとわかってないんだろうな。わかってないから言われるし傷つくんだろうな。意思疎通って難しいのになぜこんなことが生活にとって重要なのかな。

 

 気まずくなった時にそのときの気温とか言うと誤魔化せるのでおすすめです。「今日、寒いですね。」

 

 色んなこと考えてるけど、実は考えてないのかもしれない。だって咄嗟に言葉が出てこないから。したいことはたくさんあるけど本当にしたいことはないかもしれない。だって走ってないから。

 

 すごいよね、明日にはもうこの思考回路を辿る暇もなく身体を疲労が支配して眠りにつくんだろうけど、何もいらないね。

 

 楽しみだねって思ってたことが滅茶苦茶になることだってある。そういうことだって、ある。

 

 なにをもって文章というのか知らないけどとりあえず頭の中のもやがかかったなにかをぱらぱら落としてる。そんな感じ。なにも特別じゃない。特別なことをする必要はない。特別じゃない、なにもかも。

 

 ごめんね

 

 ごめんなさい

 

 やっぱり悪かったのかな、やっぱりだめだったのかな、やっぱりごめんなさい。

 

 浮いた文字やめて、文字が浮いたらだめそう。

 

 焦ったら見えてるのに目を細めてしまう。焦ったら汗かく。焦ったら手が震える。

 

 人に言われたことが一発で聞き取れないのにぼそぼそしたおしゃべりは全部入ってくるからあの人に彼女がいることも彼女の家に泊まりにいっていたこともその彼女と別れたらもう誰とも付き合う気がないことも知っている。それでいてなにも知らないみたいな顔をして眼鏡を外した方がかわいいという言葉を受け取っている。

 

 わたしが話してみたい人って絶対自分から話すタイプの人じゃなくて、わたしも自分から話すタイプじゃないから曲がり角でぶつかるやつがないと人生交わらない、交われ、どうか。

 

 もうこんな時間だ、お風呂に入らないと。今日は髪の毛洗わなくていいや。

次の日にタイトル考えるの難しい

 最近このアプリを完全なメモ帳として使っている。これってブログだった。

 ブログって言葉、人によって受け取り方全然変わる気がする。「ブログ書いてます」で全部伝わるわけがないし。noteを使わないのはただの逆張りだから気にしないでほしい。ブログを始めたきっかけの人がはてなブログを使ってたからっていうのもあるけど。

 

 バイトを始めたけどまだ続いている。これはものすごいことで、知り合いの人にも拍手してもらった。ほんとに拍手。かなりきつい種類のバイトを選んでしまった感はあるけど、なんとか頑張っている。

 異性に耐性がないせいでいちいち話しかけられただけで汗ばんでしまうのをやめたい。おばさまたちには気に入られたようで良かった。無遠慮な詮索に耐えるのは結構きついけど、なんとか流せるようになってきた。その人らはわたしが好きだから色々言いたいのだと思ってみればかわいく思えてくる。最近は新人にしてはあまりにも色々なことを一気に教えられすぎてるわたしをみて気遣ってくれるようになった。でも毎回同じことを言うのはその年代の女性って感じがする。

 

 本を読んだり、映画を観たり、そのために図書館やDVDレンタル屋さんに足を運べるようになった。わたしってこんなに計画的で行動的だったっけ、というくらい、ここ最近のわたしはすごい。バイトに向かう途中で本を借りたり、バイト終わりにDVDを借りに行ったり、自分のことを楽しませるために動けるようになってきた。

 そんな風に生活していて良かったことがある。余計な思考がなくなった、というか、その隙間がないくらいに詰め込まれた毎日だから、余計なことを考える暇がない。これはいいことらしい。疲れすぎてよく眠れるようになったし、たくさん動くので痩せた。そうすると顔が小さくなったり、細くなって気分もいい。わたしが色々考えることって悪いことじゃなかったけど、不安に真っ向から向き合うことをしなければこんなに毎日があっという間にエネルギッシュに過ぎていくのかと思った。でも考えることをやめたわけじゃない。こうしてふと思い立って文章を書いているし。それに一つ世界を増やしたから自分の中に新たなものが貯蓄されている。体は悲鳴をあげているけど、なんとか元気に頑張って、お金を稼ぐ。

 

 

 最近は歩くことが多いのだけど、特にバイトの帰り道はすごく車に気をつけている。なぜかって、バイトの帰り道に、まだ始めたばかりで賃金ももらってないバイトの帰り道に死んでたまるかと思っているから。そんなクソなことないって思いながら注意深く歩いている。単純だけどその日を生き抜くには十分な理由で、そんなこんなで生活が続いている。なんか、数学的帰納法とかやったな、懐かしい。もうなんにもできないけど、あの頃数学を頑張っていた自分はほんとうに愛おしい。できないことに正面から向き合っているときに手伝ってくれた先生も大好きだった。わたしは勉強ができなくて、そのせいで今日も少し泣きそうになったけど、でも絶対大丈夫だと思いたいから、なんとか堪えた。わたしだってすごいんだから!さ!

 

 

 

 バイトのせいで、バイトのせいかな、わからないけど、休みの日がとても貴重になって、休みって休みだからいいんだってわかった。でも前までの生活だって絶対に必要なものだったんだって、そう思っているから、そういう過程なんだなー、ってそのくらいに思っていなきゃと思う。

 

 あの、ホホバオイル、すごいいいですよ。でも冷えた空間に置いておくと凍ってしまうので、気をつけてください。

 

 

 バンドがしたいな。夢をみすぎている気はするし未知の世界だからなんともわからないけど。独りよがり、きんきん響く声、音の粒が揃ってないギター、やわらかくなってしまった指の腹

 

 

 好きな人とかできないかな、なんとなく。好きな人がいたら毎日楽しそう。実際そのときが一番楽しいらしいし。それずっと続くみたいなやつ。それがいい。誰でもいいわけじゃないけど、優しくされたら、かわいいって言われたら、それだけでときめいてしまうくらいに人から個人的に向けられる気持ちに弱い。ほんとに、あしらうって言葉が世界一似合わない人間だなとつくづく思う。あしらわれることは多いのにね。あと、わたしは素の声が低いから、ほんとにすごいと思ったときに「すごぉぉい💖⤴︎」ってやつじゃなくて「すご、、」とか「すごい、、(小さく拍手)」って反応になってしまって。それに対して棒読みだとか言われたらわたしの本当の反応を虚偽のものだと言ってしまうんだって悲しくなる。わかってよ、出会って数日だけどさ。まあ、いつまで経ってもわからないんだろうな。

 

 ナタデココとキウイと汁みたいなの食べました。って言うためにナタデココとキウイと汁みたいなの食べようと思ってる明日は。

 

 

 いろんなことがあるけど、いろんな気持ちになるけど、それでも、それでも。

 

 

 想像力が有り余ってるせいか、意味わからないくらいに飛躍した想像をしてしまったりして、自分の意志とは関係なく倫理観のない想像をしてしまうことがあるから困ってる。最近はそういう想像をしてしまったときに「ふっ、ほんとわたしってばおもしろいな」って思うようにして罪悪感とか、焦りとか、そういうのを相殺しようとしている。なんとかそれで許してくださいって気持ちで。

 

 

 都会に住むことでのメリット、これだけは言えるっていうのは、サイゼリヤミスドに思い立ったらすぐ行けるところだと思う。むしゃくしゃしたり、疲れた時にやけ食いできる場所って大事だと思う。そんな場所を地元にも見つけた方がいい気がするな。

 

 もう戻ることがないことはたくさんある。戻ったように見えてもそれは進んだ結果の巡り合わせなだけだから、安心してほしい。安心できるってわけじゃないけど。進んでまた巡り合いたいかと言われたらそれはまだ答えが出ないことが多い。多すぎる。だから考えることをぷっつりとやめている。考えなくてもいいんじゃない?今は。

 

 

もうわたしも完全には理解できないわたしの残像

たばこの煙に胃酸を搾り出している間にあの子は難しい歌をまっすぐに歌っている

 

どこへだっていけるはずで生きたい場所があるはずでそれでも床を這いずることしかできなくてだからわたしは猫になれるはず

 

そばにいてほしいときに独り

 

指先からほとばしる力で音を鳴らせていた気がして今はエネルギーの放出はどこにも見当たらない

 

わたしと話すときにそんなところみせなかったのはあの子の策略であると考えてみるといい

 

人に自分の全てを開示しているわけじゃないのは誰だって同じだよだから言葉で膜を張って壁を造って城を建てる

 

いつになったらわたしから出た迷子の言葉たちが収まるべき場所に収まるだろう

 

ごめんねわたしへわたしのわたしをそこへ運びほかではならないわたしが受け取るから

 

さあさあ無駄に文字を並べていないで韻を踏むの

 

人の言葉に身体の奥底からひゅっとなったことがあるよそれはなによりも深い底なしの穴

 

1番みたくないタイミングで1番みたくないものが目に耳に飛び込んでくるのを止められなかった

 

どこからともなくやってきたあなたたちへ

 

そこらへんのとか言ってそこらへんのものより上に立とうとするなよそこらへんのものがなかったら