エアコンの短期休暇

 今日は天気が良かった。昨日の帰り道でかなり体が疲弊していたので、昨日の夜からずっと肩に湿布を貼っている。朝はなんとか起きれて、学校に行けた。毎日ギリギリで、すべてにおいてギリギリと言える。

 

 昨日の夜はあまり上手く寝付けず、朝から500ml弱のブラックコーヒーのペットボトルを飲む干す勢いでカフェインを摂取していたんだけれど、2限が始まるまでの間ずっと病的に眠かった。1限の授業はグループワークだったから、人と話し合わないといけないのに、ほんとうに眠くて、でも寝ちゃいけないから、必死にうなずいてた。なんかずっと意識朦朧としてた。最近は意識朦朧としながらバスを立って待ったりとか、パンを食べたりとか、そういうことに慣れてきてたのだけど、さすがに人と話し合う時にあの状態になったのは初めてで、今思い返すとわたしどういう風に見えてたんだろうと恐ろしくなった。がー。やばい、顔向けできない、名前もわからない同級生たちへ。気づいたら授業が終わりかけていて、慌てて感想用紙へ「薬の副作用かもしれないのですが眠くて授業をちゃんと受けられませんでした、ワークシートは後日出します」みたいなことを走り書きして、先生がプリントをトントンと整えてるような時にそそくさと紙を机に置いて逃げるように教室を後にした。授業中爆睡してたあとに感想用紙を出しに行くときの気まずさは何度経験しても慣れない。何食わぬ顔とかできなくて、恥を感じながら、先生に話しかけられませんようにって思いながら出しに行く。

 

 2限が始まる前にどうにかしてこの病的な眠気を覚まそうとチーズボールとチュロスを買って、それを食べて、カフェの机に10分ほど突っ伏してから、次の授業がある教室へ向かった。わたしは何故だか座席指定がある授業で1番前になることがほとんどで、その授業なんて1番前のど真ん中だから先生とめちゃくちゃ目が合うし話しかけられる。だから余計眠気を覚まさなくちゃいけなかったんだけど、なんとかいい感じに目が覚めてきて、昨日友達に教えてもらったStray Kidsの「Charmer」の流れるイヤホンを耳から外していたら先生に名字を呼ばれていて、「え!?」と聞き返すと「〇〇さん、眼鏡かけていたっけ?」と言われたので「伊達メガネです」と答えた。なんだが認知されているしよく話しかけられるなと思っていたけどそんなとこまで気づくくらい覚えられていたの?とびっくりしていたら「おしゃれのため?」と言われたのだけど、なんだかおしゃれのために伊達メガネをしていると言いたくなくて「安心するので、、」みたいな変な言い方をしてしまった。一年前とかに買った安い伊達メガネなんだけど、ずっとしっくりきてなくてほったらかしていて、でも最近かけてみたら意外に似合っていたので今さら気に入った。今日はなんだか顔が寂しい気がしたのでかけてみたんだけど、まさか先生に気づかれるとはね。

 

 授業終わりに昨日音楽の話をして仲良くなった友達と話せた。昨日教えてくれたやつすごく好きだった!って話してたら「LINE交換しない?」って言われて、心踊っちゃった。LINEのアイコンを変えたばかりで、しかもその画像、トイレで撮った自分の顔写真をCDの絵文字で隠しているへんてこな写真だったからちょっと緊張したんだけど、その後ろの背景画像を見たその子が「え、liminalっぽい、」って言ったからとんでもなくびっくりして、「え!?liminal space 知ってるの!?!?」って大きい声を出してしまった。ネットで知った概念?だったからまさか現実世界で会う友達が知ってると思ってなくて、しかもその写真、自分で撮ったものだったから、余計気づいてくれたのが嬉しくて、ほんとにもう最高の気分になった。その子とは曲の好みが本当に似ていて、そのアルバムの中で好きな曲が一致していたりとか、そのアーティスト知ってるの?ってのが多くて、とても話してて楽しい。なにより自分に興味を持ってくれて、わたしの好きなものを大事にしてくれる人と話すのは本当に心に良いなと思う。最近、自分に興味のある人なんていないんだ、自分なんてつまらない人間なんだって卑屈な考えになっていたから、その子と仲良くなれて良かったと思う。また人と仲良くなってしまって、失う怖さをもう感じてしまっているけれど、なんとか上手くやっていけないだろうかと、考えてしまう。その子とは昨日に引き続き、「これ通じると思わなくてぽろっと言っちゃった」「わたしもなんで知ってるの?って思った」「やっぱり生き別れ?」って言ってグータッチして、バイバイした。人との関係の移ろいってほんとうに不思議だなと、しみじみと感じた。

 

 今日は2限で終わりだったから涼しくて気持ち良い風とあったかい陽を浴びながらバス乗り場に向かった。バスまで少しあったから、すぐそばのスーパーで飲み物とチョコチップクッキーと、卵の形の容器に入ったマーブルチョコを買った。コンビニで1つ甘いものを買うよりも安く済んで、ちょっと得意げな気持ちになった。摂取するカロリーは増えたが、毎日のご褒美は必要なので、仕方がない。卵マーブルチョコ、すごくかわいくて、もし中身がなくなっても入れ替えてずっと使いたいと思った。

 

 電車に乗るまでは違う音楽を聴いていたのだけど、Twitterを見ていてふと目に入った歌詞で急に思い出してHelsinki Lambda Clubの「Lost in the Supermarket 」を再生した。そしたらこれがまあ見事に電車の中の陽の差し込み具合と空気感とマッチしてめちゃくちゃテンションがあがった。久しぶりに聴く曲を最高のコンディションで聴けた感じがして嬉しかった。電車を降りてからは定期券を1ヶ月延長しに窓口へ向かって、かなりの大金を払って、そのあと自分のコスメのお金をローソンで支払いして、バス乗り場へ向かった。

 

 バスが来るまであと40分近くあったので、椅子に座って、咲子さんの本を開いた。毎日、読む余裕ができたらすぐ読み始められるように学校に持って行っている。先生につけてもらった紙のカバーのおかげでリュックの中でもちゃんと無事だ。咲子さんの本専用のブックカバーを買うべきかもしれない。しおりをどこに挟んであったか忘れてしまったのでパカっと開ける部分を開いたら、何度読んでも好きで苦しくなるページだった。もう一度、その部分を読んで、「わたしは多分今よくやってるし、理不尽なこともあるかもしれないけれど、総合的に考えたらうまくいくようになってるはずだ」って思い込んでから、わたしの生まれた年のわたしが生まれた日の数日前に書かれた日記もついでに読み直して、しおりのある部分を探してまた読み始めた。やっぱりすごいなー、没頭するんだけれど、立ち止まって、写真を撮ったりメモをする時間を挟んでしまう。読み飛ばしていくにはあまりにも大事なことばかり書いてあって困る。何度も読み直せばいいのはわかるけれど、なんでかいつもメモしたり写真を撮ったりしてしまう。そうこうしていたらバスが来る時間が近づいてきたので、列に並んだ。今日は人が少なくて、気が楽だった。7分しか並ばなくてよくて、ラッキー。

 

 バスに乗る時、人があんまりいないときは、前から2、3列目の右側のカーテンが後ろから閉められる席に座る。酔いにくいし、日差しが眩しくてもカーテンが後ろから閉められると遮ることができるし、お気に入りだ。人が多かったら後ろの方に行くことにしてる。中途半端に前にいると、相席に乗り込まれちゃうからね。今日はまだ外が燦々と明るいうちに帰れて嬉しかった。カーテンから漏れて肩に当たっている陽が心地良くて、本をまた開いて読み始めた。もう本は半分を越えたところを読んでいて、それは咲子さんの命があとそのページ分しかないことを表してもいるので、すごく虚しくなった。この人の文章を読んでいると、「わたしとは考え方が違って、わたしと考え方が同じところがあって、わたしよりも広い視野を持って、軽い足取りで日々をたくましく歩いてゆく人だな」と思う。考え方が同じところがあると、すごく嬉しい。この人みたいになれるかもと思うからかもしれないけれど。わたしはこの人の年齢になったときにどのくらい何か積み重ねられているかなと思って、早急になにかしなければという気持ちに駆られた。インドへ旅行に行き、1人で花見に行こうというのは決まっている。わたしが今最も敬愛している人。

 

 三つ編みを編み直してバスを慌てて降りたらやっぱり天気がすごく良くて気持ちよかった。わたしが前飛び降りようとした橋から見える川とそれに沿った木々の側面が綺麗で思わず写真を撮った。そのあと橋の手すりに虫がとまっていたからわたしも立ち止まって観察していたら飛んで行かれた。その間に女子高生がわたしを追い越して行った。道を歩いていて、立ち止まって景色を切り取ったり、観察したりするのが好きだ。スマホで写真を撮るのには慣れたけど、やっぱりデジカメが欲しい。切り取れるものなんてないんだけれど、切り取ったものを見返すことが楽しいらしいので、始めようと思っている。

 

 今日は気持ちの良い日だったので、日記を書いてみた。手帳とは別にね。明日も朝早いし、バイトもあるけれど、夜はギターをさわって、歌って、早めに寝ようと思う。今日こそは。

急に寒くなったからキレてる

ごめんけど今日月見る心の余裕もなかったからみんなの月ツイートみても何も心が動かなかった、月のこと軽視してるみたいな、風情のない人間のような気持ち、やだな

 

 上の文章は中秋の名月の日に書きました。なんて心の狭くて貧しい人間なんだろうと自分に呆れる。美しいものを美しいと言える人になりたいしそうであると思っていたのにな、遠くのものに想いを馳せることを、見えている虚像かもしれないものを愛でたいのにね。

 

 わたしは苦しい。一回その麻酔が切れたら、危ない。誤魔化し誤魔化し、うまく頑張ってきたんだけど、ね。咲子さん、こういうときってどうやってまた動くんでしょうか。故障してるんだよ、ほんとうは、最初から。人生は、生活は続いてゆくけれど、わたしが持続的にわたしでいられるのはあとどれくらいなのかわからなくなる。どうしたらいいかわからないんだけど、泣きたくないんです。どうしたって泣くもんかと思っている。驕り高ぶっているのかな、わたしって。プライドは高いって知ってるけど、驕り高ぶりたくはなくて、そこの違いってあるのかな。いやだな。自分がなりたくない醜い姿であることは。

 

 友達の家に泊まっているのに、眠れなくて、しっかりと眠剤は2錠、飲んだのに、4時くらいにやっと寝た気がする、それで9時に起きた。友達はまだ寝てる。天井の模様はラプンツェルに出てくる太陽のシンボルみたいで、ちょっとちぐはぐなのは置いといて、かわいい。友達がいてくれたおかげで昨日は正気を保てた。わけがわからないくらいショックを受けてる時、自分の中で整理がつかないのに言葉が口から出てきて、それを聞いてくれる友達がいるって素晴らしいことだと思う。わたしは決して友達が多いわけじゃない。大学でも授業で会ったら少し話す程度の人しかいないし、でも、それでも心のうちの半分くらいはさらけ出せる人が、ちゃんといる。半分以上かも。でもいいことだと思う。青春時代を丸々バレエに費やしてきたから、お泊まりってあんまりしたことないんです、実は。そういうイベントごとの経験があんまりなくて、今取り戻してる感じがする。今しかできない楽しいことをね、していきますよ。苦しみからは、逃げられないけれど、紛らわして、1日を引き延ばす。引き延ばした先はよくわからないし、それが良いことなのかもわからないけれど、引き延ばすしかなくって。困っちゃうよね。

 

 頑張る、頑張りますっていう呪い、解かなきゃいけないけど、頑張るしかなくって、頑張らないと置いていかれちゃうし、自分が嫌いになっちゃうんだよ。頑張る他ないんだよ。どうして?どうしてなのかな。もう、どこかへ置いてけぼりにされているのに、いつまでも野望を持ち続けるわたしのことを受け入れてくれる場所があるといい。そんな場所にどうか、導かれてほしい、わたしが。探すよもちろん自分で、でも、巡ってきてほしい。動いておくから、頑張るから、お願い。

 

 友達がブログを始めた。わたしのブログを読んでくれてきっかけになったのかなとか思うと嬉しい。残していくことをどうかやめないでいたいね。途中で辞めたっていいと思う。途中で更新が止まったブログも魅力的なんだって、人が言ってたし、わたしも一年前とかに書かれてそこから更新が止まってる人のブログ読むの好きだから。いろんな趣というのが存在するのだなと思う。

 

 なんだって魅力的な人が羨ましい。自分がやりたいことができている人が羨ましい。簡単に手に入れているはずがないのにそう見える人が羨ましい。こういう嫉妬しかできないちっぽけでしょうもないわたしのことが世界で1番嫌い。どうしようもない。頭がかゆくて、もうどうしようもない。色んなところがかゆくて、どうしようもないんだってば。

 

 秀逸ななにか。それは秀逸であろうとしていることはなく、存在する。生み出されて、評価される。秀逸ななにかを生み出したかった、秀逸でありたかった。秀逸って言葉かっこいいし。

 

 "言葉にするだけで軽くなってしまいそうな気持ちだけを抱えて眠りにつく"

 

    わたしの曲の歌詞の最後の節。メロディーセンスが壊滅的なんだよねー。

 

 美しいものを美しいと言えるようになりたいと思っているけれど、やっぱり、季節の移ろい、温度や色について言及することには辟易してしまう。秋の〜とか言いたくない。すぐ蕁麻疹出そうになる。でも急に寒くなったのにはキレてるからね。許さないからね。でも冬服選びやすくなったのかもしれないから、ちょっといいかもしれないとか、そんなふうに、色々、コロコロ変わって、カランコロンと転がってゆきます。

 

 たくさんの色に出会えますように、そこで、その色に気づいて、スポイトで吸って、そっと心に残せますように、いつかそれがにじみ、そこから広がる色を愛でます。放出につながってほしいです。美味しいものは、たくさん食べようと思います。丸くなっても、気にするけれど、気にしない!うそ、気にしちゃうからお菓子の爆食いはやめたい。でもね、コンビニで季節限定のおいしすぎるシュークリームは買っちゃうんです。そうやって、毎日をやりすごしていかないと、消えてしまいそうだから。

 

 いつ、どこで、なにがあって消えるかわからない心や体が、今はここにあります。

あと3%

 読んでいる本の力があまりに強いのと、激しい没頭癖があるのにこの後人と会う予定があるので一旦読むのをやめた。

 

 本や映画を観た後、ぼーっとして、いつも生きてる層と違う場所にいる感じがする。その感覚がとても好きなのだけど、これを人と遊ぶ前、しかもサシ、にやってしまうのはあまり良くなかった、何を話せばいいんだろう。くだらない話?のようなところにテンションを合わせにいかなければならないプレッシャーでちょっともう会うの大丈夫かなって気持ちになってきてる。だって急に「生きてると、こういう気持ちになることってあるじゃん」だなんて話し始められないじゃん。

 

 さっきも文章を書いたけれど、少し違う気持ちになったのと、日記みたいな気持ちでまた書いてる。今日のブログは二本立てですねー。書き殴ったもの、かっこつけて書いたもの、素直に書いたもの、泣きそうになりながら息を止めて書いたもの、全部同じ場所にあるから、自分で読み返していてもなんて統一感がないんだろうと思う。

 

 影響を受けやすいっていいことなのかな、自我はある自覚があるけれど、極端に影響を受けやすいせいで、好きな友達ができたときとか、その子の話し方みたいになったり、好きな有名人ができたときも、その人みたいなことしたりと、結構恥ずかしい。

 

 やりたいのにやれないことはないと、咲子さんは言う。私が尊敬する人はみんな多分、そういうことに近いことを思っているし、知っている。だけど、できない、できなかった人間だから、なんか泣きそうになった、わたしが本気だと思っていたものは本気じゃなかったの?と思った。うまくいく、なんでも持ってる人にはわかりっこないよと、ちょっといじけた気持ちになった。

 

 最近は毎日学校に行っていて、日記も続けている。11月に東京へ1人で遊びに行くから、そのための資金づくりのために、往復4時間の通学時間を経て学校終わりにバイトへ行ったりしている。本当に偉いと思う。本当に偉い、頑張っているのを元彼にアピールしたくて、深夜にスレッズに投稿してしまって、昼起きた時全部消した。まだまだ心の整理はつかない。

 

 こんなふうに毎日が過ぎていくことに、いろんな気持ちになりながら生きていくことに慣れているときと、どうして?って気持ちで布団の上でいくら姿勢を変えても落ち着かないときみたいな気持ちになる時がある。最近は3時以降にしか寝てなくて、常に寝不足だと思う。それなのに今日はオールをするから大丈夫なのかなと自分を心配している。

 

 大丈夫なときと大丈夫じゃないときがあるのは当たり前だけれど、大丈夫なときの人を見て、「あの人はわたしよりも大丈夫そうでいいな」と思うのはやめた方がいいと思う。自戒を込めて。

 

 ずっと本を読んだり文章を書いたりしていたら頭がぼーっとしてきた、ずっとぼーっとしている気もするけど、意識を切り替えろ!今からお前は人と遊ぶんだぞ!人生について考えてる場合じゃない!

 

 いつのまにか入院した時期から一年と2、3ヶ月が過ぎていた。あの日々のことはいつでもぽこんと心の中にあって、辛かったのにおもしろい話ばっかりあるから、話のネタに困ったらエピソードトークとして使わせていただいている。それでももうその記憶、薄れてきたなと今気づいた。心のノートを読み返してみようと思う。今ならそれができる気がする。

 

 なんの脈略もない文章を永遠に書き続けて垂れ流すことが特技です。なら言えるかも。椅子から立ち上がって、水を飲んで、ギターとバッグを担いで、バス乗り場まで行きながら、気持ちを切り替えようと思う。いってくる。

息が詰まったまま書き殴っていた

小山田咲子さんの本を読んでいたら、咲子さんが何歳でこの文章を書いたのか正確に把握したくなってメモを始めたんだけど、段々息が止まったままなにか書き殴っていた。日記の中に書いたものだけど、電子の海にも放流させておこうと思う。

 

2005年 24歳で亡くなる

 

2003年 22歳 大学4年生

 

 あと2年でこんな人になれるのか?

 やっぱり勉強ができて良い大学に入れる人の方が素晴らしくて人格者で才能があるのだろうか?

 19歳でこんな風になにかを昇華させたような曲が書けるのか?あと1ヶ月半で10代がおわってしまって、そのまま光を見ることなく死んでゆくのか?

 どこにも行けずに何者にもなれずに指をくわえて人のことをうらやむことしかできずに人生が続いてゆくのか?

 私も、私なりに苦しいつもりだったけれど、目に見えないと、苦しんだことは証明できないのか?深い人間には、なれないのか?

 息を止めて、どこに公開することもないであろう心からの苦しみを書きつづることに意味はあるのだろうか?

 元恋人の影響で好きになったバンドから、ここまで人生について目まぐるしく感じ方が変わるようになっていって、それは本当のことか?

 ずっと自分のことを高く見積もっている。何かになれないと、何か成しとげないと、自分のことが許せない。すごいと思う人のことがうらやましくて仕方ない。上手にかはわからないけれど奥の気持ちを叫んでいる友達をひがんでいる。私よりすごい人はみんな私よりも年上でいてほしい。早くお酒を飲みたいと思っていたのに、急に20歳に、大人になるのが恐ろしくなった。何も成しとげられないまま、10代がおわってしまった。何も残らない、私が死んでも。このまま大人になるまでに、どうかしていなくなりたい。何にもできないんだったら生かしておいてくれるな。咲子さんみたいに素敵な人は24歳で亡くなってしまったのに、私みたいな人間がうじうじとこれから先も生き続けていきそうなことが、許せない。あのときやっぱり飛べば良かった。車があと10台通ったらなんて、数えなければ良かった。やっぱり全部ダメなのかもしれない。人としてもてんでダメで、とてもじゃないけど人に好かれる、愛される要素も持ち合わせていない。

 学校のカフェでいつも泣きそうになっていることに気づく。前期は学校がきつすぎて1人でボロボロ泣いた。今は咲子さんの本を読んで、小山田壮平のことをインターネットで調べて、感銘を受けて、打ちのめされて、泣きそうになっている。

 自分のことをつらつらぐじぐじばかみたいに書きつらねるだけの行為のことを"文章を書くのが得意"と言っていることに本気で腹が立つ。

 あと2時間したらこの席(学校のカフェ)を立って、会うのは3回目の友達とギターを弾いて歌ってご飯を食べて、夜を明かすのだ。こんな気持ちになっている場合じゃない。

 全てに期待して、絶望して、助けを求めている。誰に、何を言えばいいのだろう。何も、わからない。自分が何をしているのかよくわからない。意味なんてないのに、意味がないことが恐ろしくなってきた。全てを投げ出したい。そうしてはいけないことも、そうはできないことも、知っている。

 大学の自販機は110円でお水やコーヒーが買えることを思い出したから、多分大丈夫。

ビルの曲線に沿って走る光

パーフェクトブルーを観た

 

感想を言葉にしないことに決めた。その方がいいことだってある。私の性格上すごく珍しいことだけど。

 

ずっとぼーっとしていて、すごく背筋が伸びたまま意識が遠くにあるような感覚で映画館からバスターミナルまで歩いた。光や風が心地よかった。

 

ひどく落ち着いた自分のことがすきで、もう少しだけ、ひんやりしたところにいたい。

 

久しぶりに履いたハイカットのコンバースは足の前方の隅が痛くなって早く脱ぎたくなっている。

 

全部そうなるように決まっていたことかもしれないけれど、そういう風に事が運んでくれてありがとう。それでいい。そう思える。

 

実体としての人間と深く関わるのは恐ろしいことだ。ふれていたものが、ふれられなくなってしまった体験をした。

 

いつでも誰に見られてもいい自分でいたいと思ったけれど、じゃあいつ鼻をほじるんだろうという現実的な問題はある。

 

明日もやっていける気がした。コンビニのもちもちしたたい焼きがとても美味しかった。さよならを声にして届ける苦しみや悲しみや切なさはまだ知らない。さよなら。